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センセのガッコ奈良

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いい教育がしたい!とがんばる奈良の先生のために

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7月24日(木)教育基礎講座「算数」を奈良県教育会館で行いました。
参加者は7名でした。
小学校の先生の他に、学生や高校の数学の先生の参加もありました。

講師の何森真人先生は岸和田市立八木南小の先生で
数学教育協議会の会員として長年、算数教育を研究されてこられた先生です。

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この日は、「算数がわからない」という感覚を理解するために
まず、ゲームからお話を始められました。

「1」は「いち」という数詞の意味、「1」という数字の意味、「ひとつ(のモノ)」というモノの意味が
とらえられて理解されるのですが、
一年生の子どもなど、習いたてや、算数が苦手な子どもは、
それらが結びついていないことが多いようです。
そこで、

ぼ = 1
う = 2
さ = 3
ん = 4
が = 5
へ = 6
を = 7
こ = 8
い = 9 
た = 10

とそれぞれ数字をひらがなに置き換えて計算をしてみました。

ぼ + う = さ

が + ん  = い などなど

何森先生が「い-が は?」などと問題を出すたびに
「え~っと・・・」と必死で考える参加者たちは、
子どもたちは、こんな風に頭の中で計算しているのだなあと実感したのでした。



そのほかに、粘土を延ばして長さを競わせたり
簡単な工作で羽をつくり、羽が落ちる速度を競わせたりして
長さや時間を計ったり、比べたりする方法を考えさせることで
長さや時間という量をとらえさせようとする指導方法など
様々な教材教具を使いながら、たのしくわかる算数の授業方法と理論を教えてくださいました。

最後には、参加者からの疑問や悩みに答えながら
算数の授業のあり方についてお話くださり、
あっという間に二時間半の講座が終了しました。

◆参加者の感想

◎まず、感覚を大切に授業のあり方を組み立てるということが
本当に子どもの学びを育てるんだと実感しました。
子どもの発見、つぶやきをもっと高校でも見ていこうと思います。
今日はありがとうございました。(高校数学の先生)

◎話がおもしろくて、あっという間に時間が過ぎてしまいました。
わかることに徹底して作った教材が子どもの興味を引き出すということを
あらためて知らされました。とても勉強になりました。(小学校)

◎採用試験に受かれば、もうすぐ自分で授業を考えなければいけないということで
今はものすごく不安でいっぱいです。
こういった機会にいろいろな授業の工夫を教えていただけるととても勉強になります。
これからも、いろんな勉強会に参加していきたいと思います。(学生)

◎算数の教具づくりをまたがんばってみようと思いました。
算数が苦手な子に、また二学期立ち向かいます。(小学校)

◎算数で教材をつくり、実際に子どもに体験させて
よりわかりやすい授業をされているのだなあと思いました。
二学期から子どもの為にわかりやすい授業ができるようにがんばります。(小学校)

◆次回の教育基礎講座の予定

⑤8月26日(火)9:30~12:00 「低学年の紙工作」奈良教育大学付属小学校図工室
講師:山室光生先生
(奈良教育大学付属小学校教諭、奈良美術教育の会)

1・2・3年の紙工作-各学年1つずつ、3種類製作します
(1)「グルグルうずまき」-糸を付けて手に持って走ると、グルグルとよく回ります。
はさみで曲線を切るときのコツを教える教材です。
(2)「トロッコ」(2年)-1枚の画用紙で荷台を作り、牛乳キャップの車輪を付けます。
とてもよく走り、2両、3両とつないで遊ぶもの楽しいです。
(3)「ビニール凧」(3年)-簡単に作れて、よく揚がる凧です。
共同で作って揚げると仲間づくりも進みます。
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by sensenogakko | 2008-07-26 14:49 | 教育基礎講座
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奈良県教育会館は、奈良市登大路町 奈良県文化会館西隣のビルです。

奈良教育大学付属小学校は、奈良市高畑町 奈良教育大学構内です。
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by sensenogakko | 2008-07-06 16:08 | 教育基礎講座
夏休みに地元の戦争遺跡を探して見ませんか。

             「奈良の学童疎開を訪ねて」
                      生駒市立生駒南第二小学校教諭 西浦弘望

夏休みは、マスコミでも盛んに平和や戦争に関わることが報道されます。
各教育サークルの全国大会でも平和学習に取り組んだものが報告されており、
どこへ行っても刺激をいっぱい受けます。
そんなことを何年も繰り返していると、さて自分の足もと奈良市はどうなのかと顧みると、
あれれあまり知らないことに気付きました。
そこで一念発起して勉強することにしました。

□市立図書館から足がかりを

夏休みのお盆過ぎから調査をはじめました。
最初は、まず奈良市立図書館へ出かけました。
「奈良市史 通史 4」 (奈良市市編集審議会/編 奈良市 1995年) に載っている
第5章「戦争と奈良」で奈良の戦争中のことを調べました。

その中で注目したのが、学童疎開です。
奈良は観光の町ですから、戦前から旅館が多くあります。
その旅館が学童疎開に使われていたという記述を見つけました。
奈良県は、大阪市の疎開学童の受け入れ先となりました。
大阪市の二七校一万八一三人の児童を県内五四市町村で受け入れました。
そのうち奈良市に集団疎開してきたのは、御幸森・生野・林寺の三国民学校の児童でした。
宿舎は市内の旅館や寺院があてられました。

その中で次の二つを深めてみることにしました。
①今、現地はどうなっているのかを追いかけること。
②昭和二○年二月十日の大火で、児童二人が焼死していることを追いかけること。

□現地調査

現地調査として、JR奈良駅(昔は、国鉄奈良駅)から春日大社一の鳥居に続く、
三条通り沿いの学童疎開宿舎に使われた旅館を調査しました。
今は複合ビルや駐車場に代わってしまっていたりと、
地元のお店の人に聞きながら徒歩での調査となりました。

【営業継続】
いろは旅館→ホテルいろは→スーパーホテル
大仏旅館→大仏館
旅館南都
吉田屋旅館→さるさわ池よしだや
若草館→ホテル若草→ホテルアジュール
【廃業】
朝日館
油屋旅館
ゑびす旅館
きくや旅館
好生館
大黒旅館
大文字屋→旅館大文字→(調査後廃業)
玉屋→都ホテル
月の家旅館→奈良国際ホテル
日の出旅館
大和屋
住吉旅館
 
□学童疎開の聞き取り

一九七〇年大阪万博を境に、奈良への修学旅行生は減少の一途をたどり、
その上各種ホテルの進出に押されて、当時の旅館の多くが廃業していました。
そんな中で、旅館大文字の大女将だった斎藤さんに当時のお話を聞くことが出来ました。
 
「戦争中、玉屋の娘だった私は、旅館同士の縁組みで大文字屋旅館に嫁に来ました。
戦争中は、旅館大文字も学童疎開の受け入れ旅館をしていました。
学校の先生・寮母さんに付き添われて子どもたちは、集団生活をしていました。
昭和二〇年二月、国鉄奈良駅近くの日の出旅館から出火し、
強風に乗って三条通りは大火になりました。
その火が実家の玉屋にもうつり、小四学童二人が焼死しました。
一人は靴を忘れて取りにもどり、もどってこなかったと聞きました。
また昭和二○年三月一四日の大阪大空襲のとき、
たくさんの人々が生駒山を越えて逃げてこられた。
旅館に泊まりたいという人はもちろん、五重塔の軒下には
たくさんの人々が休んでいたのを覚えています。
今でも学童疎開を懐かしんで、同窓会をここで開いてくださるのがありがたいことです。」
と話してくださいました。

□火災の事実を確かめる

火災にあったのは、御幸(みゆき)森(もり)国民学校の児童でした。
その学校の名前を聞いて、大阪歴史教育者協議会会員の
小野賢一さんの勤務校だったことを思い出しました。
小野さんとは毎年歴史教育者協議会の全国集会でレポートを交換する間柄でした。

さっそく小野さんに電話をして、調査の趣旨を伝えました。
小野さんから、「実は、毎年当時担任だった先生を、
毎年戦争体験を話していただく講師として招いていること。
そして、その先生が学童疎開のことをまとめて出版されていること。」
を聞きました。さっそく、著書名と出版社を教えてもらい本を取り寄せました。

著者は梅澤静子さん、書名は『学童集団疎開同行記』(編集工房ノア 一九九〇年)
を手に入れました。
本書の一二八項と一二九項に、次の様に記されていまた。

「翌日、午前十時過ぎ、浅井君はやけくずれた便所の窓際で、
黒い塊になって発見された。
落ちていた小さな眼鏡と、防空頭巾の僅かな焼け残りの布で、浅井君だと判断した。
近視で虚弱な彼のことだ。めがねを取りに戻ったかどうかは、いざ知らず、
煙にまかれて逃げられず、トイレの窓によじ登って飛び越せず、
そこでこと切れたのかもしれない。

上之山君何も残らず、完全に灰になった。
一度外に出てから、友達の止めるのも聞かず『靴や!靴や!』と取りに戻って、
焼け落ちた屋根の下で、完全燃焼してしまったと、人は言う。」

梅澤さんは続けてこう記しています。
「重い責任は逃れることは出来ないが、戦争さえなければ、疎開もない。
二人は小さな戦争犠牲者なのである。」
と、無念の思いが伝わってきました。

念のために当時の新聞を調べてみました。
昭和二〇年二月一二日付「奈良日々新聞」には、
「被災者四〇余名は附近の奥田屋旅館に避難」とみえ、
ちょうど三重県から教育視察にきて、泊まっていた教員二人が、
三階から飛び降りて負傷した、とだけでした。
学童焼死の記事はなかったのです。
すでに、軍事機密が多いときであり、記事差し止めなのか、
単に記者の判断であったかわからないが、学童の死を隠したのでした。
嘆くことも出来ない戦争中の重苦しい雰囲気を垣間見る思いでした。

□身近なところから

奈良や京都は戦争中空襲から守られた町だったと、よく言われています。
しかし、奈良の学童疎開にも、戦争が生んだ悲劇があったことを知ることが出来ました。
 
戦争の学習を生活に引きつけて教えるとき、子どもの目線で戦争をとらえようとしたとき、
この「消された学童の焼死」は、
当時の日常を想像するのに適した教材ではないかと考えるようになりました。
これをどのように授業化するのかは、私の次の課題になっています。
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by sensenogakko | 2008-07-03 22:05 | 教育実践