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センセのガッコ奈良

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いい教育がしたい!とがんばる奈良の先生のために

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10月10日(土)教育基礎講座「日記・作文」を奈良県教育会館で行いました。
講師は内野篤人先生(奈良作文の会、三碓小学校)でした。

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内野先生は、第一部で、「書くこととは、何か」と題して
まず、日本のにおける作文教育の歴史を戦前を中心にお話しされました。

明治時代は、江戸時代の寺子屋的な教育と欧米の教科書直訳の教育が混在しており
そのころの作文教育の中心は、明治時代 手本(手紙文など)を書き写すことであった。
 
しかし、二葉亭四迷らの言文一致体文学運動の影響もあり、
明治33年に、日常見聞きすることを書かせることが公に導入され、
思いをありのままに綴ることの母体となった。

その後、見たまま、聞いたまま綴る 写実的綴り方の「赤い鳥」綴り方が生まれた。
そして、「綴り方は児童の人生科である」と述べてた峰地光重らにより
生き方を含む生活の指導としての生活綴り方が生まれていった。

峰地は、「最も必要な仕事は作品の味読である」と主張し、 
「作品に子どもの全量が含まれている」と述べた。
この考え方は、のちの生活綴り方の「子どもをまるごととらえる」という原則のもととなった。

小砂丘忠義は、「人生はこれ綴り方」と述べ、社会の中で子どもをみていくことを主張した。
「書く対象に自分がどれだけ関わっているか」「行動する主体としての自己をつくりだす」
ことなどを強調した。

村山俊太郎は、昭和恐慌、軍国主義日本の中で、
プロレタリア教育としての生活綴り方運動を実践しきびしい思想弾圧をうけた。
綴り方は国定教科書がなかったため、
当時、自由な教育実践を志向する教師は、生活綴り方に向かったのかもしれない。
その後、時代は戦争へと向かっていった。

その後、内野先生は、認知心理学的なアプローチで、
子どもが作文を書くということは、どういうことなのかをお話されました。

とくに、「推敲」は、書いてからでなくて、書いている最中にも読み返しつつ考えて書いていること
読みの中に書きがあり、書きの中に読みがある 自己内対話が行われていることを強調されました。

そして、作文を手がかりに自己概念や感情の発達をとらえる → 作文を人格の投与とみなす
作文から子どもを知り、生活指導の一助としようとする生活綴り方の大切さを主張されました。

第二部は、実践編でした。

子どもと綴り方(書くこと)で大切にしたいことを述べられた後、
具体的な実践例を紹介してくださいました。

作文の授業(書く前の指導)として、
「うれしかったこと」という題で、参加者ひとりひとりに発表をさせ
簡単な模擬授業をしてくださいました。
自分の書きたいことを見つけさせる方法として、とてもよくわかりました。

そして、作文の授業(書いた後の指導)の例として、
内野先生の学級のビデオを見せていただきました。
子どもたちが、友達が書いた作文を読み合い、学びあう姿が印象的でした。

【参加者の感想】

◎理論は、むずかしいと思うところも多いですが、
「作文は、子どもを理解することだ。子ども理解こそが大切だ。」
という意味のことを行っている先人の方々のことを知り、よくわかりました。
授業のビデオは、研究授業にはめずらしく感動的なもので、
先生の日頃からの積み上げのたまものだと思いました。

◎実際の授業の様子を教えていただき、具体的な実践について知ることができました。
これからも、作文教育を大切にしていきたいです。

◎「文を生むのは、その人の魂である」という峰地光重さんの言葉がとても心に残りました。
文を書くことで、子どもの心を知ることができる。
また、子どもたちと読みあうことで、お互いをわかりあえるということで
「作文」「綴り方」は、これからも大事にしていきたいです。

◎人権教育の参加型学習に「いいことしらべ」だったと思うけれど、
一人の友達の「いいところ」をメモに書いて発表する実践がある。
これでも、いいところを書いてくれるとよろこんでいます。
内野実践は、「一番書きたいこと」の作文の中で「友達のこと」が出てきたことに価値があると思います。
それを全員で読みあって感想を出す。
全員に受けとめられることって本当の学習だなあと思いました。
作文の授業としてとりくむことですね。
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by sensenogakko | 2009-10-10 18:56 | 教育基礎講座